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現代語訳『三州奇談』その21 「像有神威」(巻之四)

現代語訳『三州奇談』その21 「像有神威」(巻之四)

 

堀麦水による『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。

今回はその21「像有神威」(巻之四)の現代語訳である。

 

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[現代語訳]

 

河北郡英田郷に御門村がある。大同丙戌年、南山大師が石動山を越えようとした時、龍燈が古い松にかかり、如来の姿が雲の間に顕れた。これにより一寺を建て大日如来を安置した。南山大師ここには二年間滞在し、聖徳太子の尊像を彫刻し、弟子の教山に授けて京都に帰った。

 

のち十三世の法印圓観住職の頃、順徳院が佐渡へ巡幸した際、敦賀から乗船したが、海上に逆風が吹き、御座船が沈みそうになった。人々が神々に祈祷すると、にわかに南の松山に龍燈があらわれたので、その光の方角に船を進めると、岸に着いた。それ以後、そこを王崎という。天皇はこの山に臨幸した。

 

承久三年一一月十日、院主に命じて、龍松山広済寺という名にさせて二年滞在したが、そこに京の明神が遷座し、そこが加茂村なのである。天皇がいた所は、今、御門村といい、百間の田地を領家といっており、そのいわれは明らかである。

 

その後、文明三年、本願寺蓮如上人が北国を教化していたころ、当山十九世阿闍梨・徳齋が蓮如に会い、法義の枢要を教えられ、密教から一向宗に変わった。そこで阿弥陀如来の尊像をあたえ、名前を改め光一となり、これから一向宗の道場となった。

 

その後、佐々成政と合戦の頃、この御堂は火災にあい、太子像はもち出せなかった。院主の光誓は嘆きながら焼け跡を探すと、その木像が少しも傷んでおらず、微笑むように立っておられた。広済寺は小さな堂を建て、英田郷数村の産土神として崇められた。

その後広済寺の住持光雲の代に、夢のお告げがあり、太子像を領家村から金沢に遷座した。元文二年(一七三七)二月であった。

 

それ以後、領家村近郷では五穀が不作となり、これは太子像がよそへ移ったためだと考えて嘆いていた。

昔からこの太子像の堂守だった領家村の権左衛門が、とりわけ太子像の遷座を恨みに思い、ひそかに上京して、本山本願寺に偽った報告をし、また藩にも訴訟をした結果、広済寺の住持は職を解かれ、太子像は元の場所にもどされた。これにより、このあたりは、以前のように五穀が豊穣となったという。

 

しかし権左衛門が上京して人を落しいれ、本山を欺いたことがわかり、本願寺からこの者を永久に一向宗から追放するよう命じられた。これにより宗旨のないものは一日も住む場所がないことは、天下の掟であるため、権左衛門はすぐに故郷を追い出され一夜の宿を貸すものもなく、貧困限りなく、行方知れずとなった。

そもそも開祖親鸞聖人が真宗を始めて五百年経つが、その宗門を追放されたものはなく、これは木像が罰をあたえたのであろう。

 

さて、像としてつくったものには、神がやどるのだろうか。京都上今宮のあたりに、明智坊という石像がある。座って見上げている像で、なにかを睨みつけているようだ。子供がたわむれに方向を変えることがあると、一晩でまた元の方向に向いている。

伝え聞くところでは、これは比叡山により、わけがあって殺された者であって、常に比叡山を睨んでいるのだという。明智光秀が山門を焼いたのは、この明智坊の生れ変わりだともいうが、これも不思議なことだ。

 

 

宝暦十三年(一七六三)の夏、金沢に珍しい焼き物の像があり、道具店に永らくあったが人の目にとまることはなかった。それは備前焼で、三尺ほどの布袋であった。これを井上兵左衛門という人が、松屋七兵衛という者の店から買い求めた。兵左衛門誤って、その像の首を折ったとき、中から金の匙二本と金印ひとつがでてきた。

 

不思議に思ってよくみると、焼き物の像のなかに、人目にふれぬように御堂がし込んであった。出すと金銀を張り付けた御堂であった。巧みな線で彫ってあり、四方柱もみな最上の伽藍であった。名木であり、その値段はいくらくらいするのかわからない。

その中に珊瑚玉でつくった神像があり、寿老人のようだが、なにを祀ってあるのかわからなかった。

 

この布袋の出所は、売買から永らく日が経っておりよくわからない。たしかに念入りにつくられた神仏像である。きっと世を忍ぶ神であるのであろう。さだめし尊いご利益があるのだろうが、どう祀っていいのかもわからない。

今後、不思議なご利益があるに違いないが、神威威徳があらわれたとき、そのことが書き記されることがあるだろうと思って、ここにこんな風に記しておくのも、また一つの奇談なのである。

 

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「像有神威」はいろいろな仏像の神威を書き記したものである。

この話は、河北郡津幡町英田(あがた)地区の領家(りょうけ)区にある広済寺の聖徳太子にまつわる伝説として伝えられている。今も金沢に広済寺という寺がある。

 

最後の話は、今後起こるであろう神威について、先回りして予測し、書き記したという手の込んだ話である。