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現代語訳『三州奇談』 その16「非無鬼論」(巻之二)

現代語訳『三州奇談』 その17「非無鬼論」(巻之二)

 

堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。

その現代語訳を掲載しているが、今回はその16「非無鬼論」(巻之二)である。

 

 

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【訳】

近頃方々の寺社建設のための資金集めという名目で、富突きというものがはやっている。わずかの金額だが、多くの人から多くの札を集めてやっている。

錐で箱のなかを突いて、その一回だけで程度を越えた金を賞金として渡している。このため人々は家を売ってまでして、札を買いあさっている。

 

その抽選の日になると、一心に神仏に祈り、こぶしを握り締めて抽選を待っている。

このためか、仏閣社前の札を突く所では、箱の中に錐を突くごとに、箱の穴の間から炎が出るのがみえるという。心をしずめてみてみると、確かにそうみえる。きっと富突きの金は、人の執念がこもっている金だというものがある。

 

これについては、いろいろなことがいわれて、各論が入り混じっている。

富突きの金は、火が燃えだすほどの勢いがあっても、一等がでると、ほかの人々はたちまちあきらめてしまう。

富突きというものは、ほんのわずかでも、人の金をかすめとるものではない。このため、そんなに思いつめたものではない。その金は、人の生きがいに等しいのである。

 

箱の中に火がでることがなくして、どうして人の運命をかえるほどの効用があろうか。

鰻・鮒などは美味しい。切りさいて火にあぶると、尾や骨を動かす。いつも見ているので、これは当然のことのように感じる。全然動かないものは、反対に食べない。

富突きで、もし火をみることがなければ、多くの札は、お金にはならないに違いない。

 

別の人は、怪異を語るのを聞いて、たいそうばかにしていった。この世に怪物があるとしても、恐ろしいのはなんといっても人間だ。夜中であれ山中であれ、いつもと違って、人が佇んでいるのをみるときに、恐ろしいと思うのだ。

 

これを聞き、ある者は難癖をつける。そんなことは、現在の人がきまっていうことだ。知恵はどうして怪物に劣るものか。怪物は昔から人が怖がるのを知っているので、すりこぎは擂鉢をかぶり、目鼻や手足をつけて、まず人に似せる。

煙管が急に尺八に化けても、それだけではなんにもならない。すべてのものは、まず目鼻をつけて人に似せるからこそ、人をおどかすことができるのだ。

 

したがって、人ほど恐ろしいものはないという話は、怪物にとってはたいそう古くからいわれることで、いうまでもなく明らかなことだ、大いに笑うべきである。

 

 

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この「非無鬼論」は、はじめに富突き、つまり富くじについて語っている。

「仏閣社前の札を突く所では、箱の中に錐を突くごとに、箱の穴の間から炎が出るのがみえるという」、ここは人の心に潜むお金への執念が燃えているようである。昨今のIRの根底を思わせるところがある。

 

後半の「この世に怪物があるとしても、恐ろしいのはなんといっても人間だ」との怪物の人間論を読むと、おもわず頬がゆるんでしまう。すべての怪物は、人を怖がらせるためには、まず人間に似たような姿に変えるのだというのは、その通りなのかも。

作者の堀麦水が、皮肉な口調で語るところが面白い。

「非無鬼論」とは、鬼(怪物)は無きにしも非ずと読むのだろうか。