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現代語訳『三州奇談』 その14「程乗の古宅」

現代語訳『三州奇談』 その14「程乗の古宅」

 

堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。、今回はその14「程乗の古宅」(巻之三)の現代語訳である。

 

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「訳」

金沢城内に後藤程乗屋敷なるものがある。前田利常の時、程乗は毎年京都からきて、殿の好みに応じてつとめていたので、ここにその屋敷跡があるという。

この後藤の先祖は、京都の室町幕府十二代将軍義晴に仕えて、彫物細工で名高かったが、その後衰退していった。以前、覚乗の代の時、屋敷の内に白狐が一匹死んでおり、その夜、数百匹の狐が集まって、死んだ白狐の葬送をおこなった。そのありさまは世にもまれなみものであった。

 

覚乗はこれに深く感じ入り、その跡に祠を建て、稲荷神社の神職に依頼し、祭礼を営み毎年お祭りしたところ、徳川家康・治世の時、再び登用され、特に鷹狩りに精通しているとして大事にされた。(覚乗は)輿に乗ることが許され、三百人以上の供をつれて歩いた。平生は鷹匠二十人ばかりを引き連れ、諸大名に鷹狩りの指南をしている。

 

屋敷は京都一条にあり、管領細川家代々が住まいした旧地を拝領して、前田利常公が書院を建てて与えた。庭園は小堀遠州が設計したものだ。御霊神社の前の中川の流れを泉水に取り入れ絶景だったので、将軍もやってきて、以来名高い屋敷(あずまや)となった。

 

加賀藩では三万石の蔵入れ地の代官を仰せ付けられので、次第に裕福となった。大谷刑部は狐の葬式を非難して凶事にあい、こちらは畜類を崇めたことにより富を得たという例でだが、この類のことは世に多くある。

 

 

近頃聞いた一件は、越中滑川の八郎兵衛の話である。八郎兵衛という百姓が農業に行き詰まり、土地を離れ、二人子を連れ江戸へ向かう道中のことだった。越後路の途中、古い社の軒下に寝た夜、同じ縁の下で狐が子を生むようすだった。これを見てふびんに思い、昼に貰っとってあった食べ物をあたえて、夜明けとともにそこを立ち去った。

 

やがて江戸近く・鴻の巣に着き、茶店で休んでいるところに、年とった道心者がきて、八郎兵衛の子供に餅を買ってやるなどして立ち去った。

 

茶店の主人が八郎兵衛に、あの道心者を知っているのかと聞いたが、全く知らない人だった。そこで亭主が言うには、今の道心者はこのあたりに数年いるが、その住まいは知らず、もの貰いをして世を過ごしているという。

この土地の人びとは、以前から狐が化けたのだといっており、彼からものを貰った人は、格別に運が向いてくるのだという。茶店の主人は、あなたがかれからものをもらったのは、裕福になるきざしだといった。

 

そしてどこからきたのかと聞かれ、越中の生まれで乞食をしようと江戸に出るのだと答えた。亭主は金銭を与え、私もあなたにあやかりたいので少しはお世話しますといった。そして知りあいへの紹介の手紙を添え、生活のため日雇いの仲間入りをさせた。二人の子は身分相応の奉公に出させた。

 

この茶屋の紹介によりよい仕事にありつけ、次第に暮らし向きがよくなり、二人の子供が成人した後、立派な商人となり、とうとう屋敷を手にいれた。

 

それからこの家はますます栄えて、正徳年間に、故郷である滑川に帰って、元の旦那寺である専長寺の御堂を再興し、さらに住持の位階までも昇進できるよう、大金を寄進して江戸に帰った。

 

長年、大名方の取替銀をして暮らしていたが、先祖の故郷ということで、やがて加賀屋敷の御用をして認められ、二十人扶持の俸禄を与えられた。越中屋太郎兵衛というのは、すなわち先の八郎兵衛の孫であるのだ。

 

 

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堀麦水の『三州奇談』の現代語訳、今回はその14「程乗の古宅」(巻之三)であった。石川県は工芸王国ともいわれているが、その源流の一つがここにあった。

 

[語注]

後藤程乗―一六〇三―一六七三。江戸時代前期の装剣金工。後藤顕乗の長男。後藤理兵衛家二代をつぐ。加賀金沢藩につかえ加賀後藤とよばれる金工をそだてた。後藤宗家八代即乗が早世したため,寛永十三年ごろ九代をついだ。