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現代語訳『三州奇談』 その11「霾翁の墨跡」

現代語訳『三州奇談』 その11「霾翁の墨跡」


      
堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。その現代語訳を逐次掲載している。今回はその11「霾翁の墨跡」(巻之三)である。

 

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[訳]
金沢浅野町に山屋藤兵衛という者がおり、全国あちこちと篭かきをして生活するものがいた。


あるとき武家に雇われて江戸に行き武州深谷の雇夫九兵衛というものを相棒として、武州総泉寺出の病僧が京都紫野へ向かうのをかついで、北陸道経由で上って行った。

 

この老僧の姿かたちは普通ではなく、年齢は八、九十才であった。頭にものをかぶり、黒染めの着物を着て、紫の頭陀袋をかけており、旅の泊まりも、病気に差し障るといい、寝食共に、ほとんど駕籠の中で済ませた。言葉少なで、ひどく変わった感じだったが、金をたくさん持っており、湯水のように使うので、二人の駕籠かきは、こまやかに看病しながら京を目指した。

 

この僧は山道を行くのは病気によくないといって、越中からは海沿いに能登経由で、浜通りにある加賀の黒津舟に着いた。道々よくものを書いて人に渡していたが、途中の社の神職斉藤氏にも一書をあたえた。

 

そこから加賀宮腰に寄り、ずっと浦伝いを進み越前の橋立にでた。人家の脇に駕籠をおろし、二人の駕籠かきはたばこを吸って一休みしていた。このとき多くの犬がうるさく吠えだした。犬は前から病僧が避けていたものだったので、二人は杖で懸命に追払っていた。


そのなかの名犬とみえる白犬が一疋、まっすぐに走ってきて駕籠に飛びつき、老僧の咽喉に食らいついて駕籠から引き出すと、老僧は一声あっと叫んで死んでしまった。
駕籠かき二人と里人は大いに驚いて、すぐに病僧を介抱したところ、いつのまに変わったのか古い貉の屍に変わっていた。

 

里人は夢から覚めたようになって、まず二人の駕籠かきを捕えて、お前たちも仲間ならここで正体をあらわせと、大勢が囲んで叫んだ。そこで二人はさまざまにあらん限りのことばを尽して、一人は加賀の者、一人は武蔵の者であり、本当に妖僧の同類ではないことを説明し、さらに病僧の旅の一部始終を語って、ようやく助かることができた。


そこで名主にことわって死骸を埋葬した。一人の証人を頼んで武蔵へ帰ることになったが、越前の証人があれば藤兵衛は同道しなくてもよいというので、土地の肝煎などから一札をもらい、九兵衛に証人になってもらった。

 

さて後日二人の駕籠かきは、はるばる武蔵の総泉寺に行って一部始終を説明し、妖僧がもっていた残りの金を返した。


和尚は、こんなことを言った。そうであろう、この病僧はこの寺に住んで二百年ばかり経つが、その素性を知る者はいない。ただ老人となってから檀家からの布施を蓄えて久しくなる。それで彼の部屋にはたくさんの金があるのだ。


ところが十日ばかり前、この僧が突然来て言うには、私は今北浦にいるが、犬に食われて命を落とした。お願いがあり、般若経をあげて後世を弔ってほしいと言って消えてしまった。さては旅の途中で亡くなったのだと直ちに法会を営んだが、なんと不憫なことか。不迷因果の理をさとせば、必ず成仏する。そうであるなら、残した金に未練がないようにと、残った金を分配しようと言った。


そして二人の駕籠かきに五十両づつ分け与えた。二人とも急に財産ができたので喜んで帰国した。

 

ところが加賀の藤兵衛は、新たに家を建て広げ、妻子と派手で贅沢に暮らしていたが、どれほどもたたぬ間に狂気となり餓死してしまった。


深谷の九兵衛は江戸へ出て本郷に店をだし布を商っていたが、加賀の藤兵衛のことを聞き、驚いて持仏堂に、妖僧の戒名北海塞翁という位牌をおいて弔ったということだ。

 

この物語は広く知られていたが、妖僧が歩いた辺りには妖僧の書いた軸が伝来しているといい、探すと軸が出てきた。これらを見ると正しくない文字があり、読づらかった。座にいた何某という先生がこれに目を通して、まことに筆跡が人間とははるかに違っている。ただ一つの朱印の文字は霾翁とある。霾は土ふるとよみながら、まことに雨狸の文字である。軒号も「しの竹草むらの軒」といえば、これは古貉であるとうけとめてよい。


ただ黒津舟斉藤丹後守がもっている軸は、ただ一点文字は正しく、「松無古色竹有遠近節」と十分に読めるのも一興である。

 

そもそも和漢で、狸・貉が人に化けて仏経を論じ、また漢の董仲舒と五経を論じた老客も、貉であったとか。巣にいて風を避け、穴にいては雨を知る。これは皆、狸・貉の神通力である。そうであるのに古貉は、人の中にいてはかりがたい不可思議自在な能力をもっているのに、たかだか犬のために命を落とすのも、また不思議である。

 

 

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以上が、『三州奇談』の巻之三「霾翁の墨跡」(巻之三)の現代語訳である。
むじなが僧に化けた話であるが、加賀と関東圏の交流が書かれているのが興味深い。

 

なお怪僧がいたという武蔵の総泉寺はこんな寺であった。

浅草橋場町西側にあった曹洞宗の古刹。

天正一九年(一五九一)には徳川家康から橋場の内で寺領二〇石を寄進するという朱印状を与えられ、また家康の鷹狩の際の御膳所となったと伝える(寺社備考)。朱印寺領二〇石は幕末まで維持された(旧高旧領取調帳など)。寛永年中(一六二四―四四)に出羽久保田藩主佐竹義宣により再興され、義宣を再中興開基とする。江戸時代には御府内曹洞宗触頭三箇寺の一で、触下寺院は七一ヵ寺、寺末は一三ヵ寺(うち一ヵ寺は三河国、残りは武蔵国)を数えた。境内拝領地は二万八千坪。御成門と大門・横大門があった大寺である。