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現代語訳『三州奇談』 その7「和光不一」

現代語訳『三州奇談』 その7「和光不一」   

        
      
堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。その現代語訳を紹介しているが、今回は「和光不一」(巻之四)である。

 

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「訳」
加賀藩の藩老である長家の祖は長谷部信連であるが、その信連を祀る神社は能登穴水にあり武顕霊社といい、宝暦三年に吉田家の神名帳に入った。九月十八日を祭日として、長家の家中をあげて酒宴や能・狂言をおこなった。のち金沢の屋敷にも神社を建立した。
武顕霊社の本社は能登穴水村の来迎寺で、そこに社を建てた。宝暦五年の秋のこと、金沢から藩の公務で侍がひとりここに詣でて、この社の神像を拝みたいと申し出た。
たまたま住持は留守であったので、小僧を責めて無理矢理に祠の錠を開けさせようとして、もうすこしで開こうかというところで、急に神殿から一陣の清らかな風が吹き出し、その侍を祠の二三間も外へ吹き倒した。小僧も侍も大変驚いて、小僧はすぐに戸を閉ざし錠をおろし、侍は恐れ多いといって、寺から走り去っていった。

また松雲公(五代藩主綱紀)のとき、ひとりの神道家がいて、願い出てあちらこちらの神社を調べまわり、やがて寺中村の佐那武神社に着いたが、そこで二度も目がくらみ、宝物を調べることができなかったということを聞いた。

ところで延享三年の秋、加賀の年寄・横山大和守が、江戸からの帰り道に信州戸隠山に参拝した。拝殿で案内した僧侶が、「この信州戸隠山は、むかし天の岩戸を引きあけられた手力雄の神様で、日本鎮護の荒神であられ、以前はこの山上にお祀りしておりました。それゆえ山頂は九頭竜権現の霊験があきらかで、猛々しい神様です。ここでお経を読んで下山するのがよろしいでしょう」といった。

だが、横山氏はどうしても奥院へ参拝に行きたいというので、僧侶は必死にとどめた。
「この奥院というのは、住持でさえ一生にただ一度、百日斎戒してやっと上ることができるところなので、それでも多くの場合間違いがあります。住持以外の人が上るときは、にわかに山が鳴り山が崩れ、必ず不測のことが起きるので、山に登ることはできませぬ」。
僧侶はこう言ったが、大和守は聞かなかったふりをして登ろうとした。法印は袖にすがりついて留めたが、それを振り離し、大和守は一目散に山上を目指し、平手武太夫という小姓一人だけがついて行った。

法印は、うろたえ肝をつぶして、古来住持のほかはこの山上へ登ったためしが一度もないので、何とぞやめてくださいと、後から留めた。しかし戸隠の神にお参りして、その奥院まで行かないで帰ることはできないと言って、大和守は五十町を一走りにして頂上に着いた。

頂上には御堂も、仏像らしいものもなく、長さ三尺ほどの岩石が三つ並んでいるだけだった。僧侶は必死になってついてきて、その三つの石こそ御神体ですといった。
大和守は一笑して、この石が明神とは聞いたことがない、それ踏んでしまえと言ったので、平手武太夫は憚りながらと草履のままで散々に踏みつけた。そして主従は気分よく下山して、坊に帰りつき食事をとった。

僧侶はあきれ顔で、ところで加賀ではなんというお名前ですかと尋ねると、侍は横山大和守だと名乗り「参詣の布施として、毎年米十俵を寄付する」と言うではないか。これを聞いて、僧侶は再び肝を潰した。それから春になるたびに、横山氏に戸隠の守り札を献上するため金沢にやってきて、戸隠は横山家の祈祷所となった。

神様のうち、ある神は人を脅して平伏させたし、またある神は乱暴なことをされたのに、なにごともなかったかのようににうちとけて、相手の守り神にまでなった。どちらが結縁するための霊妙な神意というべきなのだろうか。

 

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「和光不一」は神の威光を示す三つの話から成っている。

能登と加賀と領内の神社のほかに、信州戸隠山が舞台となっているのが注目される。

そこに出てくる人物は加賀藩年寄の横山大和守。大和守は江戸で将軍・吉宗と家重に拝謁した記録がある。

道中で戸隠に参拝した可能性があろう。

金沢と江戸とを行き来する道中での武勇談がもとになっていることが考えられよう。

『三州奇談』の中で、私が好きな話のひとつである。