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『三州奇談』の考察  その二「浅野の稲荷」   狐の祟りと恩返し

さきに『三州奇談』の「浅野の稲荷」の現代語訳をこのブログで紹介しました。
今回は、その「浅野の稲荷」について、研究考察した一文を掲載します。
少し長くなりますが、興味のある方に読んでいただければと思います。

『三州奇談』の考察は「玄門の巨佛」に続いて、二回目となります。

 

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 『三州奇談』の考察 

   その二  「浅野の稲荷」   狐の祟りと恩返し

 


はじめに

 堀麦水の『三州奇談』 は、正編九十九話、続編五十話からなる、加賀・能登・越中の伝承をとりあげた奇談集である。今回はその巻之四「浅野の稲荷」をとりあげるが、寺社の霊験と縁起にかかわる話である。『三州奇談』を読み込むことにより、郷土の歴史伝承文化研究へのあらたな視点を探りたい。


 舞台は金沢城下の北縁・浅野村であるが、江戸浅草寺の伝承がからむ話である。ここからは、武家と稲荷、屋敷神、江戸との往来、神仏の勧請・遷座などについて考えてゆきたい。

 


   一 「浅野の稲荷」のあらすじ

 

 最初に「浅野の稲荷」のあらすじを紹介しよう。
 浅野山王社は、金沢北部にあり、その別殿として浅草寺から勧請した「弥三右衛門稲荷」がある。前田利常が山科・高雄(高尾)で狩猟をした際、弓の名手熊谷弥三右衛門(本姓渡辺)は、孕んだ白狐が命乞いをしたため、殿の命に反してわざと射そんじた。このために弥三右衛門は改易となり、藩士小幡正次が加賀出国の旅費を援助した。弥三右衛門が国を発つとき、助けた白狐が夢にあらわれ、「江戸へ行けば、命を懸けて富貴とします」とお告げをした。


 弥三右衛門は、江戸浅草に移り住んだが、再び白狐が夢にあらわれ、病気を治す護符をあたえた。これにより多くの難病を治すことができ、大金持ちになった。
 その後、弥三右衛門は、伊達光宗の奥方(徳川秀忠の息女)の病気を全快させ、仙台藩に召し抱えられた。


 弥三右衛門は白狐への感謝の念をもって、浅草寺境内に「弥三右衛門稲荷」堂を寄進した。土地の人びとは弥三右衛門のことを語り伝え、稲荷はご利益があり賑わった。


 弥三右衛門は、不遇のとき世話になった小幡正次に、お礼として稲荷の祠を寄進した。正次は深く信仰したが、息子宮内の代になると、「野狐の類を屋敷内に置くことはままならぬ」と、稲荷社を打ち捨ててしまった。このため宮内は乱心し、知行一万六百石を召し上げとなった。


 そんな時、浅野村の百姓が神がかりとなり、「宮内屋敷に祀られている狐だが、すぐに浅野山王社に移してほしい」といった。宝永四年(一七〇七)、浅野山王社神主厚見隠岐が遷座の儀式をおこなったところ、稲荷は神変を顕し、この国の守護神となった。

 


 話を要約すると以上である。
 浅野山王社は、明治に入り浅野神社と号するようになった。浅野神社がある浅野村は、浅野川右岸の河北郡に位置している。浅野村は城下近隣の農村地帯を形成していたが、十七世紀に入り相対請地として町地化されていった。これは金沢に居住する武士の数が増加するにつれ、武家や町方の奉公人などの労働力が求められ、その人口増に対応するためであった。浅野村は、三代藩主前田利常の頃には、農村の姿を残しつつも、城下の経営には欠くことができない周縁地区として機能していた(田中喜男『城下町金沢』日本書院一九六六)。


 浅野神社(金沢市浅野本町)は、長徳三年(九九七)の鎮座とされ(『石川県神社誌』石川県神社庁一九七六)、かつて大社であり、流鏑馬の行事があったという(『金沢古蹟志』)。十七世紀半ばころまでは無住で荒れていたが、卯辰八幡神社(宇多須神社)の厚見氏が、神主を派遣して再興した。


 厚見氏は、代々加州社家触頭役を勤めた家柄であり、浅野神社の神主家はその一族にあたる。藩政時代、城下の多くの神社が神仏混淆により寺院の支配下にあるなか、浅野神社は数少ない、神道独立系の神社をとおした(『金沢市史』資料編一九九六)。


 稲荷社は「弥三右ヱ門稲荷 の名で浅野神社の社域内に現存しており、八月一六日には、稲荷大明神の夏季祭がもよおされる。

 


  二 金沢と江戸の稲荷


浅野稲荷と熊谷稲荷


「浅野の稲荷」の前半は、江戸を舞台とした熊谷稲荷伝承の類話であり、後半は金沢が舞台となっている。この前後半のふたつの物語は、虚構・伝承/実像・史実という構造で、対比関係をなしている。


 この話の前半と後半は、①江戸/金沢、②浅草寺/浅野神社、③熊谷弥三右衛門/小幡宮内という構図をなしている。くわえて、④白狐/野狐の対比がある。前半、熊谷に助けられたのは白狐で、白狐は年を経た狐で神通力をもつといわれる。

 後半、小幡宮内が「野狐の類など」と稲荷をののしる。狐には辰狐・天狐・地狐・野狐などの分類思想があり(中村禎里『動物妖怪談』歴史民俗博物館二〇〇〇)、辰狐は信仰対象で、人に憑いて悪さをするのは野狐とされる。野狐とされるのは狐にとって最大の侮辱なのだ。前半、白狐は熊谷に恩返しの夢告をし、後半は野狐とされ一万石の重臣を改易に追い込んだ。ここには霊獣といわれる狐の、両義的なイメージが示されている。


 もうひとつは⑤改易の対比である。熊谷弥三右衛門は主命に背き改易されたが、狐の恩返しにより富も身分もえた。他方放置された稲荷の祟りにより小幡宮内は失脚した。こうしてみると、富貴をえた熊谷と暗転する小幡家という「熊谷・信心/宮内・不信心」の二項が存在し、これが話の主題となっている。「浅野の稲荷」における熊谷と小幡の図式は、(表1●表示できず)である。

 

 

「熊谷稲荷」と江戸往来


「浅野の稲荷」には、前田利常や山科・高雄(高尾)など固有名詞がでてくるが、熊谷弥三右衛門(本姓渡辺)という武士は、加賀藩にも仙台藩にもみあたらない(小倉学『加賀能登の民俗』瑞木書店二〇〇五)。


 じつは、「浅野の稲荷」で語られた熊谷弥三右衛門は、江戸浅草寺に伝えられた「熊谷稲荷縁起 に登場するので、それをみておこう。


 永禄年中(一五五八~七〇)、越前・朝倉義景の狩猟の際、家臣のもとへ野狐がきて、孕んだ狐を助けてほしいと頼み、それを聞き入れた。その後、その家臣の子孫が、江戸で熊谷安左衛門と名を変え暮らしていたが、近くの者に狐が憑いた。憑いた狐はさきに助けた狐の仲間であり、頼みにより安左衛門が仲裁に入った。

 狐は「浅草寺境内に稲荷の社を建てて祀れば立ち退く」と告げ、それを承諾すると消え去った。安左衛門は浅草寺裏門のほとりに小祠を建立した。これが「熊谷安左衛門稲荷」で、寛文五年(一六六五)のことである 。


 熊谷稲荷は、浅草寺に近い本法寺(台東区寿二丁目)をはじめ、同名の稲荷が各地にみられる。さらに、「熊谷稲荷」伝承は、よく似た形で越前・越中にものこることが指摘されている(小倉学「熊谷弥三ヱ門の話」『加賀能登の民俗』瑞木書房二〇〇五)。


 武州熊谷・熊谷寺には弥惣左衛門稲荷がある。熊谷直実を守護する稲荷だとされ、合戦の際、みしらぬ武士が登場し大いに働き、直実を助けたという伝承である(柳田国男「狐飛脚の話」 一九六八)。浅草寺の熊谷稲荷と武州熊谷の伝承とは、何らかの関連があるものと考えられる。


 江戸浅草寺の「熊谷安左衛門稲荷」と『三州奇談』の「浅野の稲荷」には、多くの共通点がある。年代からみて、麦水はまず浅草寺の縁起を読み、のち浅野神社の伝承をみて、「浅野の稲荷」前半の伝承部分をまとめたと考える。


 こうした麦水の構想の背景に、北陸地域と江戸との交流がある。
『三州奇談』には江戸との交流が盛んであったことが描かれている。「浅野の稲荷」には、江戸・仙台・秩父・越前など広範囲にわたる地名がみえる。狐狸・貉がからむ話には、ほかに京都・滑川・越後・武州・鴻巣・深谷・浅草・本郷などでてくる。これは狐や狐のお告げをうけた人々が、街道を行き来する姿なのである。


『三州奇談』で狐狸や貉の霊験により、江戸へでて成功し故郷に錦を飾る話には、「程乗の古宅」がある。これは乞食をしようと江戸にでた親子が成功し、故郷滑川の旦那寺の御堂を再興するものである。また「霾翁の墨蹟」は、金沢・浅野町の駕籠かきが武州深谷の住人と棒組し、怪僧を担いで北国街道をゆき大金を手にするが、のち狂死するというものである。これをみると、当時すでに江戸に出て一旗あげるという行動選択があったようだ。


 徳川政権成立以降、関八州は天領(幕領)と親藩・譜代藩が配置された地域であった。関八州の宿場は、「大量の無宿人・博徒が存在し社会的な問題が生じており、治安の悪い面があった」(山田忠雄『街道の日本史(一七)中山道』吉川弘文堂二〇〇一)。北陸道や中山道からやってきた旅人にとっては危険だが、反面面白い場所でもあったのだろう。


 そこには北陸諸大名の参勤交代などの移動ばかりでなく、商人・僧侶など多様な身分の人が交じっていた。麦水もそうした人びとのなかにあった。宿場は移動する人びとと定住する人びとが混在している、情報のるつぼであり、異文化交流の場でもあった。また街道は、境界性のモチーフをもつ狐自身が活躍するには、もってこいの舞台であった。

 


  三 小幡宮内事件


「浅野の稲荷」は、前半の虚構から後半の実像へと移っていく。後半を描くにあたって、麦水は『熊谷稲荷縁起』を金沢の物語として、巧みに変換することに成功している。


 すなわち第一に、「安左衛門」を「弥三右衛門」として、左から右へ名前を転換している。第二に「浅草」の地名を、よく似た「浅野」に変換した。そして第三に、狐が登場する『御伽草子』の異類物、「木幡狐」の説話にちなんで、木幡(京都)と小幡(金沢)の類似から、狐を虚実の境界に登場させ、小幡家の物語に変換したのである。

「木幡」は、宇治の「こはた」であるが、「小幡」ともする 。「木幡狐」は、狐が人間と結婚し、やがて破綻する話である。その後、殊勝な木幡狐は稲荷大明神に守られつつ、尼になり仏道修行に励んだ。話は信仰の重要性を説いて結ばれるのだが、これは小幡宮内への教訓のようにも聞こえる。熊谷稲荷が、「浅草」から「浅野」へ変換した図式は、(表2●表示できず)である。


 ここに、「浅野稲荷」は、小幡宮内をめぐる実像、宝永三年(一七〇六)の小幡宮内事件へと接続することになる。


 小幡宮内、小幡正次とはどのような人物なのだろうか。小幡家については「諸士系譜 に、小幡宮内長次、その子・宮内長冶、そして長次の孫・宮内立信、宮内立信の子・左京満春の名がみえる。その多くが宮内を称していた。


 加賀藩では、元禄三年(一六九〇)に八家といわれる年寄の制度ができる以前、寛文元年(一六六一)ころには、寄合と称する九人が執政を務めており、そこには小幡宮内長次が入っている 。寛文元年、五代藩主前田綱紀による重臣八家への御成の茶事には、小幡長次の名がある 。小幡家は年寄につぐ家老職にあり、藩の中核を担っていたのである。延宝金沢図でみると、小幡宮内の屋敷は現在の金沢市役所の南側、西外総構堀に面したところにある。現在そこには宮内橋があり、その名をとどめている。


 小幡宮内長次は、一万九百五十石の家老であった。長冶は長次の二男であったが、長男内膳が早世したため家督を継ぎ火消役などを勤め、元禄十年(一六九七)に死去し、同年長男立信があとを継いだ。


 宮内立信の禄は、一万六百五十石で、父と同じ火消役・御宮火消役を務めた。「諸士系譜」には、その後、「宝永三(一七〇六)乱気にて御知行召し放たれ、正徳元年に死す」と記されている。この小幡宮内立信こそが「小幡宮内」のモデルであったことがわかる。「諸士系譜」では、立信の祖父・父の名は、長次・長冶となっているが、麦水は創作上、立信の父を正次としたのだろう。


 小幡立信の祖父長次が、三代藩主前田利常より一万石以上の禄をあたえられたのは、長次が利常の生母と義兄弟であったことによる 。長次の異母兄も一万石で利常に仕えている。改易となった立信の長男・左京満春には新知二千石があたえられ、小幡家は以後も人持組の家として存続した。『金沢古蹟志』巻六小幡宮内長次傳」をみよう。

 

  松雲公年譜に云ふ。宝永三年十一月十四日小幡宮内立信、知行一万六百石被召放
  終身禁錮被仰付。狂乱に依つて也。宮内儀先年狂病に付、一家中相願候而押込置
  處、今年七月十九日夜右圍之内より逃出、只一人犀川邊に徘徊いたし、加藤十左
  衛門手合之足軽見咎候處、逃走に付、召捕相糺處、小幡宮内之旨申聞。疑敷十左
  衛門宅へ召連来り、十左衛門見候處宮内に紛無之、其段御聴に達候處、宮内此度
  之仕形急度仕置にも可被命處、乱心之体に極候故、知行被没収一門共へ御預け、
  居屋敷明日中に指上げ、下屋敷は暫時其の分に仕置候様被仰渡とあり。

 

 ここには、立信の件の一部始終が語られている。とくに知行一万石以上の立信が、足軽に見咎められ、尋問されるくだりは不祥事を増幅させ、さまざまな憶測を呼び城下の話題となったであろう。


 麦水はこの事件を「浅野の稲荷」にとり込んだのである。変事があったのは宝永三年(一七〇六)、一方稲荷社が小幡家から浅野神社に遷座したのが、宝永四年(一七〇七)とある(『浅野社別社玉木之社・弥三左ヱ門稲荷両社略縁起』)。


 このようないきさつがあり、小幡家から浅野神社へ稲荷が遷座したと考えても、不自然ではない。ただし、そもそも小幡家に稲荷社を寄進した熊谷は架空の人物であり、誰が勧請したのかとの謎はのこる。ここでは、稲荷を誰かが小幡家へ寄進したと考えるより、小幡家には稲荷を勧請する具体的な動機があり、みずから勧請したと考えたい。次節でみるように、武家はそれぞれの意志で稲荷を勧請しているのである。
 いまみてきた稲荷こそが虚実の境界を形成しており、話は歴史の領域に入ったのである。

 


  四 武家と稲荷社


 ここでは史料により加賀藩及び支藩において、小幡家のように稲荷を屋敷神として祀ったいくつかの例をとりあげ、稲荷信仰の諸相をみていきたい。


 江戸では、稲荷信仰が盛んであった。斉藤月岑の『東都歳時記』(平凡社一九七〇)には、「江府は、すべて稲荷勧請の社夥しく、武家は屋敷毎に鎮守の社あり」と、稲荷信仰・屋敷神の流行を伝える。以下は、加賀藩・支藩の稲荷の屋敷神の例である。


 金沢・長家  八家のひとつ、藩老長家には、始祖長谷部信連が狐に助けられたとの伝承がある(「長家家譜」 一九七二)。これについては、「長家には世々稲荷明神を祭り、狐を大切にいたはる事、更に怠らず」(『金沢古蹟志』)のほか、「長家祖霊狐に救護せらるるを以て、今に其末裔の狐を畜ふ。座敷下に洞穴あり」(『亀の尾の記』)などの記事がある。伝承の真偽はべつとして、長家はある時期から稲荷信仰をして、稲荷社を祀っていたと考えられる。


 大聖寺藩・松見家  大聖寺藩では、屋敷神が二例認められる。ひとつは宇迦御魂神などを主祭神とする「稲荷社」(加賀市大聖寺馬場町)である。
『加賀市史』によると、「従前旧大聖寺藩松見七五三ナル者、敬神ノ志深ク、山城国稲荷神社ノ分霊ヲ勧請シ私邸内ニ鎮座スト云。其后信徒増員、常ニ参拝タヘス、ユエニ之ヲ信徒ノ共有ニ計ヒ当郡上福田村春日神社ノ末社トナシ、衆庶参拝ヲユルサル」とある。崇敬者は百六十五戸としている。


 松見七五三は、「大聖寺藩士由緒帳」によれば五代目である。安永九年(一七八〇)、父の死を受け幼少知九十石で御馬廻組(平士)として仕えたのをかわきりに、天明九年(一七八九)、家督二百五十石を継ぎ、御近習役を勤め、のち諸頭(上級実務職)の御徒組頭、大御目付となり、文政十年(一八二七)五十三歳で亡くなっている。


 平士の松見七五三は、伏見稲荷から屋敷神を勧請した。この稲荷は利益があり評判を呼び、松見家以外の人も多数参拝に訪れたが、屋敷神であるので常時参拝できず、屋敷外に移し、その際おそらく稲荷講をむすんだのであろう。現在も住宅地の一画に、稲荷社としては大きな社殿がある。


 大聖寺藩・生駒家  もうひとつは、江沼神社(加賀市大聖寺八間道)の境内へ移された稲荷社である。稲荷社の由緒は、「勧請、享和三年(一八〇三)九月十四日。従来当町江沼神社氏子生駒一彦私邸内ニ鎮守ナリシカ、明治十三年郷社江沼神社境内ヘ移シ、サラニ一社殿ヲ創立」(『加賀市史』)とある。生駒家は初代が前田利長に仕えており、大聖寺藩立藩にあたり利常が家老として送りこんだ家柄である。家老は代々生駒家など六家から任用した。


 一彦矩道は九代で、慶応二年(一八六六)家老となった。明治維新の時期であり、京都詰を命ぜられ、のち士族長を勤めた転換期の人物である。生駒家の屋敷神を江沼神社に移したのは、維新による政治体制の変革による影響だろう。生駒家は、大聖寺藩の初代藩主前田利治を祭神とする、江沼神社に稲荷を遷座したところが、松見家とは違っている。大聖寺藩では、家老・平士を問わず稲荷屋敷神を祀っていたことがわかる。


 そもそも加賀藩と稲荷のつながりは、金沢城築城時にさかのぼる。金沢城の薪丸には、稲荷神社があった。「稲荷第は、此の地に古より稲荷神社ありしを、(略)元和八年(一六二二)眞長寺境内に安置す」とある(『越登賀三州志』)。戦国武将のあいだには、城郭内に稲荷を勧請する習慣があったようで 、加賀藩でも当初より城と稲荷との結びつきがあり、江戸との交流により武家の間で屋敷神を祀る風が広がっていったと考えられる。

 


  五 稲荷社の神変・遷座 


「浅野の稲荷」は、浅草寺の「熊谷稲荷」にはじまる稲荷社の勧請と遷座を背景としながら、加賀藩のスキャンダルを広く伝えた。しかし、麦水は熊谷稲荷と小幡事件を題材に、読者に対し虚実の読み物の面白さを伝えただけではない。「浅野の稲荷」では、同時に神変と遷座のストーリーを加えて、神仏の功徳が強調されているのである。


「浅野の稲荷」の結末は「其夜金沢中光りさして神変を示す。是より永く此国の守護神たりと云ふ」である。これは縁起・伝承にはよくある表現だといえるが、それにしても城下郊外にある村の氏神、しかも境内社にすぎない稲荷社遷座の際の神変により、城下中が輝いたのである。


 神変とは、「世尊が白毫から一条の光を放つと、それが宇宙全体を照らす」ことだが、「行者が獲得する不思議な力を神通(神力)といい、その力を行使して不思議な現象や出来事を現す」との意味でもある。


 浅野神社の「弥三右ヱ門稲荷略縁起」には、「祭主隠岐守源正勝、野狐の加持に神変を顕す」とある。つまり、「浅野神社神主・厚見隠岐の神通によって触発された稲荷神が、不思議な現象を現した」のである。神主と稲荷の、双方の力が相まった奇跡であり、これは、対外に誇るべき神社の縁起として大きな要素であった。


 さらに、神仏には霊験を発揮するためのすわりのいい場所が存在する。小幡家の稲荷は「我を山王の別殿に祭らば、五穀豊穣の守護神と成へし」と、行き先を指定して遷座を求めたのだ 。


『三州奇談』に「伝燈の高麗狗」(金沢・伝燈寺の話)がある。寺が破却され、観音像とこれを守護する狛犬が離れ離れになっていたころ、猪がでて村人が困っていた。狛犬が夢にあらわれ、「私を、わが主がいる伝燈寺に連れて行けば猪を退治しよう」と告げた。狛犬をもとのように観音像のそばに移すと、以後猪は出なくなったという。神仏には霊験を示すことができる場所があり、またその逆の場合もあることを述べているものである。浅野神社は、稲荷神にとって、まさにすわりのいい場所であったのである。


 小幡家時代には閉鎖的な屋敷神にすぎなかった稲荷社が、開放された神社境内に移り、人々のさまざまな願望に対応できる環境になった。これは大聖寺藩・松見家の例と同じである。さらに江戸一番の信仰の場・浅草寺由来の稲荷は、万人に開かれた場所に置かれてこそ、霊験を発揮できるのである。


 小幡家の稲荷社は、浅野神社というところをえて、神変を現したとするものである。

 

 

 

注   (コピーのみ。当ブログでは本文と連動できず)

●堀麦水は「「弥三右衛門」とするが、浅野神社に現存するものは「弥三右ヱ門」、浅草寺縁起は「安左衛門」、『浅野社別社玉木之社・弥三左ヱ門稲荷両社略縁起』は「弥左ヱ門」とする。

●『浅草寺観世音 金龍山縁起正伝』靄雲堂一九一五年。

●浅草寺「熊谷稲荷」は、現存しない。明治二年神仏分離の際、とり壊して浅草神社に合祀した(『東都歳時記』)。

●今泉定介・畠山健校訂『御伽草子』は、タイトルを「木幡の狐」とするが、目次及び本文は「小幡」とする(国立国会図書館・デジタルアーカイブによる)。徳田和夫「刊行

●『御伽草子』書目総覧」(『図説日本の古典 御伽草子』)は、書目見出しを「小幡狐」とする。

●『石川県資料近世篇(九)』「諸士系譜」二〇〇九。

●亀田康範「加賀藩士」石川県歴史博物館二〇〇〇年。

●『金沢市史』通史編二〇〇五年。

●『三百藩家臣人名事典3』新人物往来社一九八八年。

●中村禎里『狐の日本史』日本エディタースクール出版部二〇〇三年。

狐は浅野村の農民に憑依し浅野神社への遷座を求めた。当時は、狐が憑くと、狐をおろす職業的宗教家である修験・山伏・法印・巫女などが呼ばれる。かれらは狐の霊力を媒介してそれを説明づけた(宮田登『山と里の信仰史』吉川弘文館一九九三)。遷座先は、山伏が判じたであろう。廃仏毀釈までは、山伏が別当社僧を勤める神社が多数を占めていた。山伏の復飾寺院数は加越能で八十(明治元・二年時)を数え、中でも金沢の件数が多い(『金沢市史』資料編寺社)。山伏が多いのは、狐おろしや憑きものおとしの出番がしばしばあった証である。

 

参考文献 (第五話 浅野の稲荷)
『加賀藩士』石川県歴史博物館 二〇〇〇年
 小倉学『加賀・能登の民俗』瑞木書房 二〇〇五年
 黒田日出男『歴史としての御伽草子』ぺりかん社 一九九六年
 児玉幸多『宿場と街道』東京美術 一九八六年
 忠田敏男『参勤交代道中記-加賀藩史料を読む-』平凡社 一九九三年
 宮田登「稲荷信仰の浸透と民衆」『稲荷信仰』有山閣出版 一九八三年
 森雅秀『仏のイメージを読む』大法輪閣 二〇〇六年

 

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