続 お寺の看板
「お寺の掲示板」について、もう一度書いてみます。
さきごろ、江田智昭の「お寺の掲示板」(新潮社)を参考にして、お寺の門前にある掲示板に書かれている標語のようなものについて書いてみました。
今日はその続編です。
お寺の前の掲示板には、仏の教えをかみ砕いたような、あるいは住職が考えたような言葉が書いてあります。
なかには、なるほどと感心するようなものやユーモアが感じられるものがあります。
近くのお寺の掲示板には、親鸞聖人の750回遠忌のポスターが貼ってありました。
横にこんな言葉が掲示されていました。
「今、いのちが あなたをいきている」
何回読んでも、この日本語は変だと思いました。
これについて、江田智昭さんは、こういっています。
「いのち」は誰のものでもありません。私の所有物でもありません。そう考えると、「いのち」が主語になるのもうなずけます。
なるほどと、少しわかった気分になりますが、やはり判然とはしません。修行が足りないのだ。
先日、地元紙・北國新聞のコラム「潮間帯」、「散歩のおかげ」は、このお寺の標語についてのものでした。
そこにはー
「一昔前に、筆者は小さなお寺の標語に呼ばれているような気がして近づいてみると、「長生きしたけりゃ今日死なんこっちゃ」と書いてあったそうで、以降この即妙で真理を突くようなひとことが、ずっと頭を離れずにいると書いていました。」
たしかに、そのとおりで、洒脱な面白い言葉です。
掲示板では、こんな言葉がみたいのです。
そのコラムには、こんなこともありました。
「お寺離れがいわれているが、お寺とその外との境界にある掲示板は非常に重要な役割があるのではないか」
たしかにそうです、掲示板は、聖なるお寺と俗世の境界と考えるのです。掲示板の言葉に感心しつつ、一歩前に進めるのです。
また、「潮間帯」の筆者は、このような金言や標語のようなものにはネタ本があるのではないか、という疑問があったといいますが、私も同様でした。
これについて、江田智昭さんが「お寺の掲示板」のなかで語っていることは、前回書きました。
なお、このような言葉が掲示されているのは、浄土真宗、浄土宗、日蓮宗のお寺に多いそうです。
さて「お寺の掲示板」にのっている言葉で、一番インパクトがあったのは、「おまえも 死ぬぞ」という直撃弾のような言葉でした。
そのほか、前回紹介したもの以外で、二、三加えておきます。
「人の悪口は嘘でも面白いが 自分の悪口はほんとでも腹が立つ」
「何故か 叱る人は少なくなり 怒る人は多くなり」
本当に、その通りです。
「風呂は湯加減 医者は匙加減 人生は手加減
わたしゃいいかげん さとりとは」
ほんわかとしていますが、実際には手ごわい言葉。
あとは「お寺の掲示板」(新潮社)をじっくりご覧ください。
きっと、お気に入りの言葉に出会うことができるでしょう。
ところで、長年疑問に思っていることって、ありますね。
私の疑問だった、田舎に行くと、家や納屋に貼ってある「キリスト教の看板」のように。
たまたまそんな疑問が解決した時には、喉につかえていたものがすっととれたような感じになります。
「お寺の掲示板」は、私にとっては、胸のつかえがとれたような、魔法のような一冊の本でした。