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現代語訳『三州奇談』 その1「大人の足跡」

 

加賀・能登・越中の奇談集『三州奇談』については、そのアウトラインを3回にわたって紹介しました。

今回から『三州奇談』正編にある九十九話のなかから、よりすぐった奇談を紹介していきます。
順不同ですが、私が好きな話からということにします。

 

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現代語訳『三州奇談』 その1「大人の足跡」

 

堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集です。

第一回の今回は、「大人の足跡」(巻之四)の現代語訳です。
前半は大人の足跡、後半は三薄の宮(みすすきのみや)が語られています。
いずれも金沢の北に位置する河北潟周縁の伝承です。

 


「訳」
「大人の足跡」(前半)

河北潟縁の木越というところに、道場が残っています。道場とは浄土真宗の集会場です。天正の頃の一向一揆の戦いがあったとき、木越三光、つまり寺号に光という字がついた三つの寺があったのですが、そのひとつ、光徳寺の城壁があったところなのです。

戦の際には、寺の周りに湖水を引きこんで要害となして、光琳寺などの寺とともに手を組んで、織田信長勢と戦ったのでした。

光徳寺の要塞の、大手からは佐久間盛政が攻め寄せ激闘を繰り広げているうち、搦手からは長連竜がはせ参じてきました。連竜が湖水の堤を切って水を落としたため、城を守ることが難しくなり降参して、光徳寺は、能登所口(七尾)に落ちて行きました。現在の所口広徳寺というのがそれなのです。

 

光徳寺跡は、現在船掛りとなっていて、蓮如上人の旧跡として種々の宝物があり、金沢からの遊覧の地となっています。光徳寺の跡には古木の梅がありめずらしい房のような花を咲かせるといわれています。
 
その光琳寺の跡は、今は田んぼの中にありますが、そこには「大人の足跡」が残っています。
土が落ち窪み、草一本も生えておらず、そこには大男の足の指あとまでがはっきりあり、間違いなく大きな足跡が石の上に残っているのです。まことに奇怪なところです。

 

さらに、木越からは遠く離れた能美郡波佐谷の山の斜面にも同じような足跡があります。ここも指のところが窪んでいて、草は生えていません。

 

もう一つ倶利伽羅山中の打越にも大きな足跡があり、これらの足跡は皆同じ大きさ、形なのです。いずれも長さは九尺余り(約2、7メートル)、幅は四尺(約1、2メートル)ほどもあるのです。

 

現在はっきりしているのはこの三つの足跡で、一歩の間隔はといいますと、七、八里(約30キロほど)もあるのです。
どのようなおおきさの巨人が、これらをどう歩いていたのか、たいそう不思議なことです。

能美郡では土地の人は、たんたん法師の足跡と伝えていますが、いつのころからそう言い伝えられているのかわかりません。

木越の足跡は田んぼの中にあるので、草が生える季節には遠くからでも、はっきりそれとわかり、実に壮大な眺めであります。

この傍らには、一揆の戦で敵方であった長氏の兵士の討ち死の塚が築かれています。

 

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「大人の足跡」(後半) 三薄の宮

 

河北潟へりにある八田村というところに鈴木三郎重家の塚というものがあって、今は三薄の宮といわれています。

重家からかぞえて五代目の新九郎というものがここで百姓をしていました。
あるとき、潟で鱸(すずき)を釣り上げたのですが、この鱸はたちまち美女となり、おちに新九郎と夫婦になったのです。

年月がたって竜宮から迎えがやってきて、妻は帰ってしまったのですが、あとには死んだ鱸が残されました。新九郎はその鱸を埋めて塚を築きました。

 

新九郎は、加賀国守護である富樫氏に仕え近辺を治めていたのですが、死後同じ塚に葬られました。やがて、ここに薄が生えてきました。

村の人はこれらを一つの社に祭り、三薄(みすすき)の宮と呼び、餅や酒を供えて祀っていました。

 

ある年に祭礼をしなかったところ、村中が疫病にかかったので、村人たちが社にお詫びして祭礼をおこなったところ、じきに疫病はおさまったのです。

その後この塚には、薄がたくさん生い茂り、これを切ると血が流れでました。村人はたいそうこれを恐れて、今なお祭礼を欠かすことがないといいます。

                                                                                                                         おわり

 

 

「三薄の宮」は、巻之五「大人の足跡」の後半部分で、話の前半の木越村から、すぐ近くにある八田村に舞台を移しています。農業主体の木越と違い、八田は農業と漁業を営む集落でしたが、ここに鈴木・鱸・薄という発音が同じ、三つの「ススキ」をテーマにした話が語られているのです。

 

なお「大人の足跡」については、柳田国男が、「大太法師」や「ダイダラ坊の足跡」で言及しています。そこでは「加賀国の三歩の足跡」として、『三州奇談』を引用しています。

「加賀の国を三歩で歩いた大男」と言い切ったのは、いかにも柳田らしく適切なキャッチコピーのように思えます。

 

現代語訳の『三州奇談』の第1回は「大人の足跡」でした。

私はこの三つの足跡が現在も残っているのか現地を歩いてきました。その結果、木越と倶利伽羅には痕跡は見当たりませんでしたが、能美郡波佐谷(現小松氏)には現存していました。

ここには松岡寺があり、一向一揆の拠点の一つであったところ、これは光徳寺と同様です。

足跡は、松岡寺跡付近の山すその、岩が砕けたようになっているところにあり、そこから流れ出る水は、いまも「たんたん生水」と呼ばれています。

 

『三州奇談』には、このように現代にも伝承が残されている話が、いくつも収録されています。今後、順次私が訳した現代語訳を紹介していきます。