はてな版  金沢と『三州奇談』  

金沢と『三州奇談』の雑記帳   ki-dan.com

夏目漱石 中期3部作「三四郎」「それから」「門」

金沢の中心・香林坊の書店で古書展があった。
そこで『夏目漱石』という、むかしのラジオ講座のテキストを見つけた。

NHK第2放送で2000~2001年にかけて放送されたもので「明治文学をよむ」をテーマにした1冊であった。

漱石好きにしては漱石評論をそんなに読んだわけではなかったのだが、最近ボチボチと読むことにしていた。

ここでは前期3部作では「三四郎」、「それから」ではなく、「門」をとりあげてあった。「門」は一番好きな作品なので、迷わず買うことにした。

 

f:id:yumetagai:20191225084527j:plain

 

近くの喫茶店に入って目を通すと、中期の3部作「彼岸過迄」、「行人」、「こころ」をとりあげており、さらに最後の「道草」と「明暗」の評論が続いていた。

この中では、中期の3部作に注目した。それまでの書き方と、がらりと変わっていて、うっかり読み進むと前後関係がわからなくなってしまうことがあったのである。

これについて著者の佐藤泉は、「行人」のところで、こう述べている。


「行人」は、このHさんの言葉のように、主人公が「違った角度」から描き出される小説である。主人公自身が行動することによって物語の筋が展開するという一般的な小説ではなく、漱石は、複数の語り手それぞれの「角度」から主人公を映し出すことで作品世界を立体化させようとしている。

こう述べて、さらに次のように続ける。


通常の主人公の観念からすると、一郎は主人公の位置に置かれていない。だが、漱石はそれによって全く異なる小説世界を構築しようとしているのである。「彼岸過迄」と同様「行人」も、一般的な小説の尺度でいうなら、見事な失敗作というほかない。きわめて纏まりの悪い、結末を欠いた、片付かない物語なのである。だが、こうした作品が書かれたとき、同時に、それ以前に存在していなかった新たな小説の尺度がつくりだされているのである。


佐藤泉は、このように評論している。

こういうふうに分析されてみると、何回も読んでよくわからなかった作品のつくられ方が、一度にぱっと明らかになったくるのである。
私はこのように分析することが、どうも苦手である。

このあとの「道草」と未完の「明暗」について、どのように評論しているのか興味深い。

納得できる評論は、読んでいて気持ちがいい。
漱石の、「まとまりのない結末を欠いた」作品を読むには、時に評論を読むことが必要となる。